タイトル4
ホリデー西ケ丘 Vol.138

令和2年2月上旬号


●夜明けのアヒル(編集部)

当院ホームページの一角で活動させていただいている「文芸部職員活動」のブログマガジン「ホリデー西ケ丘」。9月のネットワークシステム変更に伴う事情から約5ヶ月間中断を余儀なくされていたのですが、新たな設定を模索しながら再開することとなりました。


数ヶ月というこの時間に、日本列島は二度の雨台風で未曾有の経験をすることになり、今や日本のどこにいても災害からは逃れられないのではないかと思ってしまうのです。もとより日本の国土は地球規模のプレートがせめぎ合うホットな地勢にあり、それゆえの自然の恩恵を豊富に受けているわけですが。


形あるものは全て消えてゆく。流動し変化変質し元に戻ることはなく去ってゆくもの。その深い諦念を抱えて日本の精神世界は育まれてきました。諦めの良さといいますか、どこかで癒されない痛みを受け入れる資質があるように見えるのです。決して恨んでいないわけではないのですが、お天道様のすることにケチをつけても始まらない、せめて「人災」は極力減らしていってほしいと願うばかりです。



ーーーーCONTENTSーーーー


1、スイーツは私にお任せ

 「タピオカブームを楽しむ」

  CoComama


2、私も一言

 「かぐや姫伝説」

  カーマイン神山


3、ボルダリングレポート

 「自己暗示」

  炭酸まぐねしゅうむ


4、私も一言

 「心の旅」

  春夏秋冬


5、私も一言

 「同窓会の終わり」

  さんざクロス


6、音楽の話

 「楽譜を読む」

  アンサンブルYISI


7、シネマフリーク

 「タランティーノ監督作品」

  シネマ二郎


8、時計仕掛けのりんご

 「好奇心?」

  鈴木義延




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1、スイーツは私にお任せ

 「タピオカブームを楽しむ」

  CoComama

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食感というのはなかな侮れないですよね。おせんべのガリガリした脳に与える振動、ソフトクリームなら舌の上で徐々に溶けてゆく感触。食材にはそれどれ独特の歯ごたえ、舌ごたえ、口腔内でのいろいろな刺激があります。味の変化はいうまでもないことですが、この、口腔内での振る舞いもまた新しい食材がブームを左右しているようです。


最近私が気になっているのは他でもありません「タピオカ」です。おしるこに入れる白玉にちょっと似ているかな、こんにゃく?独特の弾力が魅力です。ブルーベリーよりちょっと小さいその大きさもいいですね。これをいろいろな食材、主に甘味系の飲み物などに入れてその味と噛み応えを楽しむのです。材料はキャッサバというお芋の一種で、それがいくつかの工程を経て加工され商品になるということです。


噂の食材は、美味しいと言われる商品は、できるだけ一度はチェックしないと気が済まないのが私!この感触も最近のマイブームです。



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2、私も一言

 「かぐや姫伝説」

  カーマイン神山


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時折わけもなく月の姿に見入ってしまうことがあります。十三夜とか十五夜とか、満月の日にはどこか神秘的な、というかなんだか不気味な魔力がそこから放射されているような、真っ白くて大きなその存在に見入ってしまうのです。


人の命のリズムは月の存在を抜きにはできません。潮の満ち引きを起こさせる重力の微妙な増減は、私たちの命の営みに大きな周期を与えているのは遺伝子レベルでの刻印です。サンゴ礁では誰がタクトを振るわけでもないのに、満月の夜に一斉に産卵する様は、月と命の不思議な関係を目の当たりにするような出来事です。


そんな月にまつわるお話で、幼い時から不思議と思って聞いていたのが「かぐや姫」のお話です。これは各地で少しづつ違ったストーリーで伝承されているらしく、童話にまとめられているのがオリジナルというのではないようです。宇宙人説?そうでした、かぐや姫は月の住人で、最後には月に帰っていってしまうのですね。


「嫁さんにしたい」という男性方に無理難題を与えて翻弄し、最後は「地球の男には飽きた」と言わんばかりに帰っていってしまう。これって何?若気の至りのタカビーな嬢王様キャラの展開?


人生は妥協!そうしないと何にも進みませんよとアドバイスしてあげたい。いくら嬢王様になっても、プライドだけでは心は満たせないのではないでしょうか。月にはそんなお姫様を満足させる殿方が控えているのでしょうか。とにかくなんだか消化不良のお話でしたね。でも月はそんな幻想をいろいろ抱かせる特別な何かです。



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3、ボルダリングレポート

 「自己暗示」

  炭酸まぐねしゅうむ

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ボルダリングをやるようになって、毎回つくづく思い知ることは、自分を縛り続けているものは自分の思い込み、自己暗示なんだなということ。「これは俺には無理だよ」「絶対あそこまで飛びつけない」。


普段の自分の力からすれば、格上の課題は常においらを拒絶し、お前のレベルはそこまでさと、まるであざ笑うかのようにそこに冷たく存在している。結局それはただの幻影、あるのは物理的な印だけなんだけど、それを設定したセッター(課題をセッティングする専門職の人)たちの力と思惑に、自分は想定されていないのだなという孤独感さえ感じるんだ。「お前なんて相手にしていないよ」と言われているように見えるときもある。無論それらは全て自分が作り出した虚像なんだけどね。


実際自分の今の握力ではこのピンチ(小さなつまむようなホールド)は掴めない。こんな傾斜のあるところで体を支えきれない。足をかける場所がないのに次に移動できない。全く取りつく島もないという失望にとらわれることがよくある、というより常にそんな感情にさらされて、自分の力の限界をなぞるのが、このボルダリングでもある。力の有限性に落胆し、そしてどうするかがまあ楽しみ方でもあるのさ。


そして毎回のことなんだけど、まずは自分がゆとりでできる課題を一通りやり、ちょっと気合を入れなければクリアできない課題をその次に何コースかやり、それでもまだ体に余力が残っていると感じる時に、自分の上の課題、自分がまだクリアできていない課題に取り組むわけ。でもその最後の課題の扱いは、いつもそう単純じゃない。


何と言ってもまず気力、今日はやってやるぞ!という気合がなければ、体力的なゆとりがあってもチャレンジする事はない。体力的には、だいたいおいらは夜勤や遅番以外の日は毎日ジムで時間を過ごしているから、いつも疲労している、と言えるかもしれない。適度な休息が筋力を発揮するスポーツには必要だとはよく言われることさ。


実際二日ほど休んだ後は力がみなぎっているというか、腕の筋肉にパワーが湧いてくる感じがあることもある。毎回じゃあないけど。


でもそれより、今日はトレーニングしようかどうかとか迷う時間を作りたくないのがおいら的やり方。スポーツはそんなフィジカルトレーニング理論がどうたらという以前に「毎日やること!」、常にそれを最優先させるのが、おいらが馴染んでいる自分なりの方法なのさ。四の五の言わずにやり出したらやる。疲労だとか理論だとかは、もっと極限的に上位の人たちに求められるスキルであって、おいらレベルの初級、中級者は、いかにやり続けるかということの方がよほど大切なんだと思っている。


日によってやらない理由を探すようなアプローチには興味がないのさ。いかにその競技を好きになるか、好きにならない限りそこで見つけられるものはそれだけのもの。自分の力はさておいて、そこにどれだけ強く求める気力と想像力があるか、それによってそこから汲み出せる思いや知見は全く違うものになると思えるのさ。「下手の横好き」がおいら的な方法論の真髄なのね。それなので、時間さえあれば常に、毎日、というのがごく自然な前提となってトレーニングを継続している。「今日は一体どんな発見があるだろう!」。


そこで「自己暗示」なんだけど、そういうやり方で常に自分ができないことを突破するための針の穴を、探しているわけ。それが見えたり見えなかったり、別のアプローチのアイデアが湧いたりするのは、その想像力の足かせになるのが、「自分には無理だ」という悲観的な思い込みなんだ。何かのタイミングでその「無理だ!」という思い込みに「?」がついた時、急に目の前の風景が違って見えたりする。「行けるかもしれない」という小さな希望が胸に灯る時、力ってのは湧いてくるものなんだ。


少しづつ、少しづつ、そうやって自分の殻を一枚一枚剥いで行って、ようやく今5級から4級の課題が半分くらいできるようになってきた。自分には絶対無理!という自己暗示は、それを自分から崩すところにこのスポーツのキモがあるんだなと、思うわけ。まあそういうこと。



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4、私も一言

 「心の旅」

  春夏秋冬

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誰でも子供の時に、ストーブや使用中の調理器具に触れて「熱い!」という体験をしたことがあると思います。手にやけどをして辛い時間を過ごしたことでしょう。何日にもわたることもあります。これは火傷などに限らず、手を切ってしまったり打撲したり骨折したり、「だからこうしてはダメ!」という認識を体が否応無く刻みながら、人は成長してゆくのです。


アメリカ社会でのニュースに、お父さんの机に入っていた銃で遊んでいた子供が兄弟を撃ってしまった、などの事故が伝えられることがあります。なんて愚かなと思っても、それはその社会の常識から生まれたエピソードですが、火傷や打撲とは桁違いのリスクをそんな社会は内包したまま特に対策も取られずに営まれているようです。


こういった体の苦痛でしたらわかりやすいのですが、心の苦痛は他者からは見えにくく、また自分でも自覚しにくいものでしょう、トラウマという心の傷です。失敗体験、これも体の傷のように、普通の社会生活をしていれば頻繁にさらされるわけです。


それで、自分の日々の行動を規制しているものはなんなのかしらと思うことがあるのですが、自分は思った以上に自分で自由に選択しながら過ごしているのではなく、むしろ「こうしたらダメ」「ああしたら辛い」というような、踏んではダメ地雷が想像力の中にたくさんあって、無意識に迂回しながら物事を考えたり選んだりしているんだなと思うのです。


あの新しい食材を食べたことはあるけど美味しくなかったわ、今度も噂の新食材紹介されたけど手にしないでおきましょう、というように。


自分の中にそういったたくさんの「これをしてはダメ」的な記憶の蓄積がたくさんあって、つまり失敗の記憶がたくさんあって、それがいろいろなアプローチの道筋を方向付けしているのだなと思うのです。なぜ自分はこれを選んだのだろうということと同時に、なぜ自分はあれを選ばなかったのだろうという、無意識の自分の恐れとこだわりを想像して。するとそこには自分が封印していたような別な記憶が蘇ってきたりするのです。毎回というわけではありませんが。


それにしても脳細胞というものは、何十年の記憶を、実はほとんどすべて記録しているのではないかと思うくらい、メモリーの容量は大きいのではないかと思うのです。残しておく記憶と消去してしまう記憶は毎日眠りの段階で選別されているらしいのですが。


とにかく、自分の行動を左右しているのは、意識している「物事」と同時に、意識していない「個々の苦痛な記憶」が関与しているらしいと、時々暇なときはちょっと立ち止まって自分を省みるようになったのですね。だからどうなったというわけではありませんが、これは自分なりの「インナートリップ」、気分転換、心の旅なのです。



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5、私も一言

 「同窓会の終わり」

  さんざクロス

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例年年の瀬には、同窓会のお知らせが中学、高校とやってきました。そして中学の同窓会には「これが最後の同窓会となります」と書いてありました。


シニア世代も後半となると集まりも悪くなるというより、遠い過去を肴にして楽しめる時間というものが徐々になくなってきたのだと思い当たるのです。あの時のあの出来事、あの人の変貌とあの驚き、など、過去をなぞり現在との落差を楽しめるのは、お互いがまだそれなりに美しい中年期、ミドル世代時期までの感性なのだと。


いうまでもありません、シニアも後期になると過去よりも未来、残り少なくなった未来とそれに伴う最終的な肉体的、人間関係的、そして経済的激変期への準備に関心のほとんどが奪われてゆくのです。今更過去に想いを馳せてもそれはもうあまりに遠く、その細部はそれぞれの思い込みと装飾で過剰に変形されて、幼馴染と共有したい思い入れはできないほどに擦り切れてしまっているのです。


もう一度会いたいと思っていた人は早々と病に倒れ、遠い過去を振り返って、若い時代なりの思い入れや勘違いを蘇らせ、感謝の言葉を告げたいと思っていた人は私のことなど覚えておらず、それぞれが全く別な記憶の中に数十年前の時間があったことを知るのです。


それももう再現されることはなくなっていくんだなと、物事の始まりと終わりというサイクルを、しみじみ感じたのです。実際にその最後の同窓会に参加したのですが、仲の良かった旧友の姿はもはや見られず、聞けば闘病中だとか施設に入っているとかで参加できない現実が伝えられます。そしてどこか見覚えのある顔には語るべき遠いでは見つからず、あまり豊かに展開は思想もない残された未来に覆いを馳せる、そんな時間に変わっていました。ここらあたりでその集まりも終わり、その知らせは皆の気持ちの中から生まれたもののようでした。



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6、音楽の話

 「楽譜を読む」

  アンサンブルYISI

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幼い頃から音の出るもの、ハモニカやリコーダーが好きだったのですが、それ以上どうということはなく、時折音を奏でては遊ぶだけで学生時代は過ぎてしまいました。音楽をそれなりになんとかものにしたいと思ったのは社会人になってからです。ヤマハのフルート教室に通いだしたのが20代前半、そこで初めて楽譜というものの読み方を知ることになりました。


楽譜というのはどうやって読むの?と常々思っていたのですが、結局一つの音の音程と長さが記された記号なのだということがわかったわけです。無論それを元にさまざまな装飾が同時に記されるのですが、ポイントは音の高さと長さ。そして強弱などを読み取るための図形なのでした。


現実の音をしっかり楽譜に記載しようとするととても複雑なものになってしまうので、大きな骨格が記されて、それをどう読むかをそれぞれ別に学習することになっていきました。私が知り得たレベルの読み方は実に稚拙なので、楽譜を読みながら楽器を奏でる際にはかなりな集中力が必要になります。もともと肉体化していませんから頭の中で考えながらの読み方は集中しなければすぐにエラーしてしまうのです。


最近になってジャズの楽譜を読みながらの演奏を練習しているのですが、ジャズの音の並びはいかに予測をはづすか、どれほど意外性をフレーズの中に盛り込むかを競い合っているようなところがあり、最初とても戸惑ったのです。なんてやりにくい音の並びなのだろうと。


それと格闘し、少しづつ指が反応するようになって、多少その変則的音の飛び方に慣れてくると、それはそれでなんとかこなせるようになるわけです。無論かなりリズムをスローにしての練習なのですが。


そうした後に、気分転換に今まで基礎のためのエチュード、練習曲やクラシックの小品を眺めていると、クラシックの楽譜はまるで数学科シンプルな図形のように、きっちり構図が引かれ、そこから展開し変化し終章に向かうまでの、なんと整合性のある、美しい展開なのかと感心してしまうのです。つまり読みやすく吹きやすいのです。


それなので最近はクラシックの曲集も手に入れて、ジャズの練習で疲労してしまった後は気分転換に奏でるのですが、その練りに練られた、才能ある作曲家が苦労の末作り出した音符の並び方にうっとりしながら、なんだかとても癒される数分となるのです。自分が無理やり作り出すアドリブの稚拙さが嘲笑られているかのようです。



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7、シネマフリーク

 「タランティーノ監督作品」

  シネマ二郎

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現在「ワンス・アポンナ・タイムインハリウッド」という新作プロモーションのために、頻繁にメディアに登場しているタランティーノ監督。私もつい一週間ほど前、休日に気分転換にビデオ屋さんにゆき、何を借りようか迷った挙句、いったい何度見るんだ?というように「キルビル」の1、2を借りてしまいました。


そして夜も10時頃、ちょっと寝る前にあの衝撃的な導入部などをちょっと見てみるかな、とスイッチをいれてしまうとズルズル。結局それから4時間強、朝は6時に出勤の準備を始めなければならないというのに見てしまいました。翌日は寝不足での勤務、まるで夜勤の翌日状態で仕事です。


そうならないように注意していても、もともと嫌いじゃないですから、映画が始まると我を我を忘れてしまうのです。つい最初から終わりまで全部鑑賞してしまいました。面白かったですね。ほんとタランティーノは天才!と言いたくなります。文法が、とにかく独特のノリと温度。


また「パルプフィクション」が見たくなってしまいました。いや「ジャンゴ」にするか「レザボアドッグ」にするか「イングロリアーバスターズ」にするか、迷うところです。休みが二日続くような日があるなら全部借りてきて丸々二日みるってのもいいですね。



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8、時計仕掛けのりんご

 「好奇心?」

  鈴木義延

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歳を重ねてくるとどうしても活動する範囲が狭まってくるという印象があります。若い時代にはあれもしたこれもした、どこにも行ったあそこにも行ったと。元気な若者はバックパック旅行、世界をその身一つで歩き回るというスタイルもあります。


私も若い時代に多少アジアのいくつかの国に旅行したことはありますが、数日から数週間という滞在で得られる知見はたかが知れており、そこに住んだりなんらかの活動に具体的に関わらない限り、ただ通り過ぎただけという印象からは逃れられませんでした。いろいろな世界があるなと漠然と眺めただけですから、それが血となり肉となるような経験には程遠かったと思います。


功なり名を遂げた人たちが異口同音に語る言葉に「好奇心」というものがあります。あれはどうなっているのだろう、これはどうしてこうなのだろうと刺激を受けると起動する知の欲望は、その後の人生的経路を決定づける起点となるようです。そしてそれをどれだけ新鮮な視点で維持できるかが重要だと語られます。


ソニーや本田を世界的な企業にした創業者たちの姿はそれをドラマチックに表していますが、人が生きる上での「好奇心」は、量的な差異はあれ誰にでも備わっている資質なのでしょう。それゆえに教育システムは成り立っており、学びたいと欲する人たちが生み出すその後の活動は、常に熱気を帯びた積極的なものとなっています。


ところが中には、この「好奇心」というものがあまり感じられない人というのもいます。特異的には全くこういった欲望が生まれてこないという人もいるようです。生きる意欲すら積極的に持てないという資質、その状態は心の病と言われることもあります。


「好奇心が大切だ」、「生きる意欲をもっと強く持て」と他者が求めても、それらは自発的に動き出さない限り他者が手を出せる種類のものではないようです。その好奇心を前提とした教育や他者、社会と関わることの醍醐味は、知りたいという欲望がない限りただ通り過ぎてゆく風景としか感知されず、経験の蓄積にはつながりません。それでもこれに刺激を与えたり育成することは可能なのでしょうか。


境界領域にある状態ならば、何らかのきっかけでそれが活性化してゆくということはあるかもしれません。教育の機会がなかった、貧しい環境だった、それどころの状況ではなかったという日々が続いたために抑圧されてしまった好奇心というケースなど、故郷を追われて流浪する難民の人たちには好奇心や教育など遥か遠い贅沢な課題と写るに違いありません。


しかし平和で豊かな日本の社会の中でも、いくら周りに学ぶ機会や刺激を与え続けるシステムがあっても、こればかりは操作しにくいもののようです。これはもとより誕生と共に心にセッティングされた資質としか言いようもなく、後天的にトレーニングでどうこうなるようには思えないのです。最初から差異は刻まれてしまっているのです。


創作意欲を失ったしまった作家が覚醒剤幻覚剤に手を出すというのは、その欲望がどれだけ大切かを知っており、そしてそれが失われたことへの絶望が逸脱行為に走らせるのかもしれません。他者に世界の魅力を先立って提示する創作者たちは、人一倍そんな資質が旺盛でなければ維持できないものだからです。しかし薬品の作用でそれは取り戻せるものなのでしょうか。つかの間の幻影は他者に驚きとともに伝えられる表現として結実するのでしょうか。


まあそれはいいとして、シニア世代になるとよく語られる標語として「好奇心を維持すべし!」と喧伝されるわけですが、それはいってみても始まらない、好奇心を持てる人は元々持っている人で、掛け声をかけなければ動こうとしない人は、いってみても結局「無駄!」でしかないようです。


シニア世代の行き方は「なるようになった」以外のスタイルはあり得ず、その状態は問いではなく答えなのだというしかありません。今更生き方とたどり着いた人生の日々は変えられないのですね、「好奇心を旺盛にして精神的にも充実した老後を作ろう」などと標語を振りまいても、現状を変革するような力になるとは思えないのでした。




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(編集部より)

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